2021年5月9日日曜日

ブログ、引っ越しました。

ブログ、引っ越しました。

というか、実は2つ前のブログに戻ったんですが。

URLは以下となります。

引き続きのご訪問お願いいたします。

参考までに、歴代のブログURLを以下に:

2021年5月5日水曜日

日本のシルクロード、町田街道沿い、淵野辺〜上川井

前回の続きです。

前回は、

椚田 → 大戸 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港(下図青線→黒線)ルート

の、椚田~大戸を行き、大戸から、八王子街道(町田街道)を淵野辺まで行きました。

今回はその続きです。町田街道を淵野辺から上川井まで行きます。

◆◇■□

まずは大沼神社です。

大沼神社

ヤマトタケル伝承や建武期の小山田氏伝承もあり、もしかしたら相当な古社の可能性もある神社です。確かに、目の前の通りは、私の推察では武蔵国が東山道時代の東山道と東海道の連絡路で、その後、武蔵国が東海道に道替えとなった後は東海道であった道です。

1699年にこの地で始まった新田開発ですが、1736年に、その新田に住む住民たちの手によって勧請されました。

入植してから37年とかなり間が開いてますが、それ程、ここの開発は困難だったということでしょう。

武蔵野と同じく段丘ですから、井戸の深さは30mを超えたと言います。井戸以外での水の確保は、境川から水を汲むか(上矢部街道は別名水汲み街道), 所々に生じた窪地に溜まる沼しかありませんでした。

大沼はそんな窪地の一つで宙水といって水が浸透しない地質と合わせて沼化していました。

その水を頼りに、新田が開かれ、水神様の弁財天を祀ったのだろうと思われます。

かろうじて残る、"辨" の文字。明治の廃仏毀釈で大沼神社という名称になった。

前々回説明したように、弁天様は養蚕守護神ですから、養蚕や炭が生業となった後は、篤く信仰されました。

同じ大沼新田内に、大沼稲荷神社もあり、こちらも養蚕守護神として信仰を集め、初午祭は盛大だったと言います。

大沼稲荷神社

先を行きましょう、鵜野森の稲荷神社です。

稲荷神社、幸延寺の境内社と思われます。この直ぐ右は幸延寺の墓地です。奥様と思しき方が掃除をしてらっしゃいました。そう言えばこちらの神社も本当にキレイにしてらっしゃいます。

ここはお稲荷さんに加え金色大明神も祀っています。

真中の像はどちらなのか分かりませんが、像の右側の御札が金色大明神です。ピンチアウトしてズームでご確認下さい。

所でそもそもこの金色大明神ですが、茨城県にご鎮座まします蚕影神社―――そう言えば、前回、蚕影神社をさんざんご紹介しておきながら詳しくご説明していなかったですね。―――今回、詳しくご説明します。

神社境内掲示では成務天皇の御代(131~190年)、金色姫伝説では欽明天皇の御代(539~571年), 筑波郡案内記では延長4年(926), 常山総水では崇神天皇の御代(BC97~BC30年)に創建という古社中の古社で、元は蚕影山大権現を祀ってました。その別当が蚕影山桑林寺という寺で、廃仏毀釈によりこの全体が蚕影神社となったのです。

蚕影山大権現とは、金色姫を中心に、左右に筑波神、富士神を配していて、つまり、金色姫とは蚕影神社の神様だということになります。

今の祭神は、 稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命ですが、稚産霊神(日本書紀で、生まれた時に蚕と桑が頭に乗っていたことから養蚕守護)が金色姫、埴山姫命(筑波山は男体山と女体山なので様々な夫婦神が祭神となったが、中に、埴山夫婦神もあった。)が筑波神、木花開耶姫命(言わずと知れた富士山浅間神社の御祭神)が富士神ということですね。廃仏毀釈の際に、この様に解釈し直しされたものと思われます。

さて、蚕影山大権現の縁起ですが、つまりここに金色姫が登場するわけですね。

インドにリンイ大王という王がいて、后との間に金色姫という娘がいたが、その后が亡くなり、後后をもらった。

その後后は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした。

後后の悪意を知った王は、姫の身を案じて、桑の木で造ったうつぼ舟に姫を乗せて大海に流した。

この舟は日本の常陸国の豊浦湊に流れ着き、浦人に助けられ、浦人は、助けた姫を掌中の玉と愛したが、程なく、姫は亡くなってしまい、その霊魂は蚕になったという。

そこで豊浦湊の浦人たちは、金色姫と、左右に筑波神、富士神を配し蚕影山大権現としてお祀りした。

蚕影神社、金色姫とはこういうことだったんです。

さて、話を戻して鵜野森の稲荷神社ですが、初午がお稲荷さんの祭日、二の午の日が金色大明神の祭日でした。

お稲荷さんの方ですが、稲荷神社の本社伏見稲荷の鎮座は和銅4年(711)2月の初午の日です。

だから全国の稲荷神社は2月の初午の日に初午祭を執り行いますが、日本のシルクロード、世田谷周辺、杉並区編でもご説明した通り、午(馬)は養蚕と縁がありますから、お稲荷さんの方も養蚕守護神として信仰されていた可能性がありますね。ダブルというわけです。

先を行きましょう。その名も蚕守稲荷神社です。

蚕守稲荷神社、"こもり" と読みます。前回も出ましたね、御子守" 神社が。元はこちらの蚕守と思われます。

1774年には既に創建されていて、1854年に伏見稲荷大社から、蚕守と記された御霊を頂いたということです。

こちらも午(馬)繋がりの養蚕守護神ですね。

4/17のお祭りでは、春の養蚕が始まる前とあって、豊繭祈願で大いに賑わったそうです。

近隣の青柳寺では、鼠が眉を食べないようにと、"クチドメ" と呼ばれるお守りが配られたそうです。

おーっと、鑓水の諏訪神社と同じですね。鼠に対して繭を食べないで下さいという形式の養蚕守護信仰は。またしても道によって信仰形態が繋がりました。

また、絵馬は、蚕室に飾っておくと繭が当たると言われてたそうです。

青柳寺、きれいなお寺でした。清々しい気分になりました。天正11年(1583)開創。明応8年(1499)に総本山身延山久遠寺日朝上人により結ばれた小庵清龍寺が起源、渋谷義重が開基、天正11年、日題上人開山。

先を行きましょう。茨山稲荷神社です。

茨山稲荷神社

境内掲示によれば、1778年には既に祀られていたとのこと。

後、京都伏見稲荷大社本宮より御霊を分霊、と、蚕守と書かれた御霊ではないようですが、蚕守稲荷神社と非常に似た縁起です。

こうなるとこの辺りの稲荷神社全部怪しくなってきますね。

因みにGoogleMapsで周辺の稲荷神社を検索してみると、

ド真ん中、相模大野駅の直ぐ上が蚕守稲荷神社、分かりづらいですが、鳥居マークのマーカが検索結果の稲荷神社です。稲荷神社は屋敷神が多く、よって、元々多いんですが。

と、沢山ありました。が、今回は時間の都合でパス。

さて、茨山稲荷神社に話を戻します。縁起の続きには、

副業以上に力を入れて現金収入の目的で営まれた養蚕も技術の遅れと病害や天候等に左右されて、春、秋、晩秋と年三回の努力も無駄になる事が極めて多く、商売繁昌の外に五穀の豊穣と養蚕成就の御加護を願って、稲荷神社を建立したものと思量されます。

とも書かれていて、やはり、蚕守稲荷神社同様、養蚕守護神として信仰されていたことが分かります。

先を行きましょう、鶴林寺境内にある下鶴間不動尊と蚕神です。

右が蚕神

この不動尊では1月にだるま市が開かれます。

だるまに蚕神とダブルですね。養蚕が盛んだったということです。

先を行きましょう、高尾山です。

高尾山山頂に鎮座する飯綱神社

何故ここに高尾山?, あの高尾山との関係は?

と言うことなんですが、ここはどうもこの辺りのあの高尾山薬王院への講の出発地点、集合場所だったようです。

高尾山薬王院には分祀の正式な記録が無いそうですから、講の下で、高尾山薬王院の本尊である飯縄大権現を祀る飯縄神社が創建されたのだと思います。

高尾山薬王院は、養蚕守護の御札を配布し隆盛を極めました。

ここ横浜の高尾山の南麓も迅速測図の時代から桑畑でしたから、養蚕守護神として信仰されていたのだと思います。

先を行きましょう、上川井神明社です。

が、その前に地形を見てみましょう。

八王子街道(町田街道、シルクロード)と地形

先程の高尾山を過ぎると、シルクロードはやがて帷子川沿いに走ることになります。帷子川の両岸は山。だから、桑畑を開きづらいのです。それまでの一面桑畑、の状態から殆ど桑畑が無い環境になり、これが横浜まで続きます。

だから実はここ上川井神明社が本道の生糸輸出世界一の痕跡の最後となります。

境内社は蚕影神社

ここは一度訪れてますが、蚕影神社があるとは気付きませんでした。

既述のように、殆ど桑畑が無いのになぜここに蚕影神社が・・・と、思いましたが、zoom upしたらその訳が分かりました。

迅速測図(1880〜1886)の上川井神明社(ド真ん中), 周囲に桑畑は無い

今昔マップ1896〜1909になると、北西部が畑から桑畑に変化

恐らくこれが原因で、蚕影神社を勧請したものと推定します。(この台形のような形をした桑畑エリアをグルっと一周しましたが、住宅地となっていて、桑の木一本ありませんでした。)

最後、と言いつつこれも痕跡と言えますかな。

横浜水道

横浜で日本の生糸を買う側だった外国人商人の強い要望もあって、1887年、道志川と相模川が合流する三井村から横浜まで上水を導水する水道道が作られました。作ったのはあの、三渓園でお馴染みの原善三郎や、大倉喜八郎ら生糸商人たちです。

上川井の辺りでは谷戸を横断しなければならず、写真のような橋が架けられました。

◆◇■□

如何でしたでしょうか。

前々回の鑓水、前回の小山〜町田、今回の町田〜高尾山までは、本当に生糸輸出世界一の痕跡だらけでした。

が、高尾山を過ぎた辺りからビタッと無くなっています。

町田周辺は相模原段丘で水の確保が難しく水田は完全に無理、畑もままならず、雑木林にして炭を作り、養蚕が盛んになると桑を植え養蚕に励みました。消極的選択ですが、地形が真っ平らだったから出来たとも言えます。

上川井の辺りは大袈裟に言えば渓谷のような地形で、帷子川沿いの僅かな平地は水田に、山では畑や桑を植えられるなだらかな地形は僅かしかありませんでした。

結果は全て正しい。

今回の場合は相模原段丘という地形と、八王子の立地、これが生糸輸出を世界一に押し上げた、そういうことですね。

さて、最後に、訪れませんでしたが、シルクロードのゴールとなる横浜港を見てみたいと思います。

1880〜1886年

1896〜1909年


1917〜1924

横浜港の変遷です。

生糸輸出が始まった1859年に、一番上の地図にある二本の突堤が幕府によって築かれました。横浜港の最初の形です。

1867年、東の突堤を湾曲化し、象の鼻になりました。

今回ご紹介したシルクロードを使ったのは既述のように1889年までですから、象の鼻まで運んだということになります。

1896年、象の鼻の突堤に大桟橋を築造。二番目の地図には大桟橋がありますね。同時に、西の突堤の西側に新港の埋め立てが始まります。

もうこの頃は初代横浜駅の現在の桜木町駅まで電車で運んでました。シルクロードは使わずに。

1914年、新港完成。同時に汽車も乗り入れるように線路と駅の敷設も行われました。初代横浜駅、現在の桜木町駅から港まで延伸したのです(品川〜初代横浜駅は1872年に開通済)。3番目の地図には線路と駅が描かれてますね。

2021年5月1日土曜日

日本のシルクロード、町田街道沿い、椚田~淵野辺

日本のシルクロードシリーズ、前回は、本道とも言える、

八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 八王子街道 → 横浜港ルート(下図黒線)

の、打越弁財天から浜見場までを行きました。

今回は、

椚田 → 大戸 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港(下図青線→黒線)ルート

の、椚田~大戸を行き、大戸から、八王子街道(町田街道)を淵野辺まで行きます。

下図の赤ポイントは養蚕縁の寺社、青ポイントは寺社以外の養蚕縁の遺跡、つまり世界一となった生糸輸出のシルクロードの痕跡ですが、ご覧いただいてお分かりの通り、八王子街道(町田街道)沿いに多くあります。ここを行きます。



◆□◇■

高尾まで輪行。椚田から八王子街道(町田街道)を南へ。勿論旧道を行きます。

八王子街道(町田街道)旧道、椚田からここまでズンズンと登り、ピークからの下りがここで、山の中腹をトラバースする道でした。

大戸から川尻には向かわず、八王子街道(町田街道)を東へ。直ぐの所に子ノ神社があります。

入口が分かりづらいです。財団法人の敷地に入り、すると奥に参道の階段があります。さて、どうでしょう?!, 雰囲気良くないですか?

はい、前回も登場しました子ノ神社(鑓水諏訪神社)。

何故、子ノ神社が養蚕守護なのか。

前回は、子ノ聖 → 子ノ神 → 鼠となり、鼠に対して、"どうか繭を食べないで下さい。", という方向性の信仰なのではないか、と、結論付けました。

また、養蚕守護とは無関係ですが、"何故、この地に子ノ聖信仰が", という点に対しては、飯能の天龍寺から、絹の道を通ってこの地に伝わってきたのではないか、と、結論付けました。

こちらの子ノ神社はどうでしょうか。

1536年の創建です。

祭神はやはり子ノ聖でした。

絹の道を通って、生糸だけでなく、子ノ聖信仰も伝わってきたんですね。

あるいは逆かも。っていうか逆ですね、神社創建時期を考えると。いや、当時から生糸は流通してましたね、北条氏照の桑都青嵐もあるし。

何れにせよ、道ができれば人が通る、人が通ればモノだけでなく文化も行き交うということですね。

さて、祭日は220日でした。220日のお祭りとは、立春から220日後の日にお祭りすることですが、この日は台風が多く厄日とされ、風を鎮めるお祭りをしたのです。

と、言うことで養蚕守護には関係無さそうですね。

が、その後、昭和35年頃に祭日を4月に変更したのですが、その理由が、220日辺りは養蚕が多忙でお祭りどころではなかったから、ということですから、この辺りは養蚕が盛んだったということは確かなようです。

先を行きましょう、園林寺です。

素晴らしくキレイで手入れが行き届いていることが分かります。清々しい気分にさせてくれました。ありがとうございました。

1428年の開創、本尊は地蔵菩薩立像と阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代の作とも言われています。

北白川宮能久親王の護持仏であった元三大師像も祀られており、元三大師ですから元旦と正月三日にだるま市が開催されます。

日本のシルクロード、世田谷周辺、深大寺編でもご説明しましたが、だるまは養蚕守護となりました。

深大寺は1646年にその殆どが焼け落ちたという火災に遭いますが、元三大師の像だけは火難を免たということがあり、この霊験が、七転び八起きのだるま信仰と習合し、だるま市が開かれるようになります。

さて、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、この脱皮のことを、"起きる" といいます。

この、"起きる" と、だるまの七転び八起きが習合し、養蚕農家は、だるまを大切な守り神として祀ってきたのです。

また、園林寺には蚕影尊(コカゲサシ)も祀られています。養蚕の守護神で、4/24が祭日。お祭りが終わると住職からお札をもらい、各戸に配り、シラガミサマと呼んで祀ったのです。(残念ながら境内では見つけられませんでした。恐らく中です。)

シラガミサマとはオシラサマのことで、日本のシルクロード、世田谷周辺、杉並区編でも説明しましたが、中国の捜神記(東晋時代、317~420年)が東北地方を中心に入ってきて若干変化したオシラサマ伝説における神様のことです。養蚕守護となっていきました。

と、言うことでここ園林寺は相当な濃度の痕跡ということになります。

先を行きましょう。

八王子~七国峠~津久井道ルートを越え、八王子~杉山峠(御殿峠)~厚木街道ルートを越える付近で、瑞光寺を訪れます。

こちらも素晴らしく手入れが行き届いているお寺でした。ありがとうございました。

風土記によれば、

開山を聖山大祝と云ふ(天正十九年三月十六日寂す)開基は瑞光月心と傳ふ(俗稱を勘十郎と云ふ、天正十四年十月三日死す、武州多磨郡下相原村の民、五左衛門の祖なり)

ですから、天正かその前の開創と思われます。

同じく風土記には、

蠶影山(仏加介左牟)権現第六天合社。権現は常州筑波山麓、桑寺境内の社を勧請すと云ふ。

と、ありますから、養蚕守護だったんですね。(こちらも残念ながら境内では見つけられませんでした。)

また、直ぐ近くの旧道沿いには蚕種石があります。

蚕種石、平成31にこの地に移設したとのこと。以前は民家敷地にあった。

八十八夜近くになると石の色が緑色に変化し、蚕を孵化させる時期が来たことを知らせたと言います。八十八夜の日には幟が立ち参詣人で賑わったそうです。

訪れた日は偶然にも八十八夜の日。緑色になってますか・・・ね、、、。

この蚕種石がある地区はナント!!!, 字名が、蚕種石なんです。

皇武神社

先を行きましょう。

前回行った本道に出合います。ここには札次神社があり、ここにも、蚕種石が祀られています。

蚕種石

町田の民話と伝承によると、ここ札次神社は鹿島神宮を奉遷した神社なんですが、その時期は詳らかならず、です。

寛文6年12月(1666/12)には検地を受けていますので、その前には創建されていたということになりますが。

が、ここの蚕種石は、弘治年間(1555~1557)に、小山町三ツ目の島崎家の祖先が土着した際、この石を持ってきたと伝えられています。

当初、石は小山町字町有の裏山の俗称瓦尾根(今の尾根緑道)の路傍に祀って、武運長久と子孫繁栄を祈願したといいます。

このようなことから、"子"種石と呼ばれるようになったとのことでした。

養蚕が盛んになってくると、"蚕(やはり、"こ" と読む)"種石として、信仰篤く祀られたそうです。

札次神社は鹿島神宮で、島崎氏は鹿島神宮の代々社家ですから、弘治年間にこの地に落ち延びてきた時に開いて、その時に"子"種石も持ってきた、後に養蚕が盛んになってくると、"蚕"種石として信仰された、という解釈なら筋が通りそうです。(そう言えば先程の1つ目の蚕種石の前の屋敷は島崎家でした。)

先に進みます。札次神社の南、蚕影神社です。

蚕影神社

宮下自治会館に祀られているんですが、明治8年(1875)に会館後、いつの頃か、ここに祀られたとのことです。

先に進みます。本覚院中村不動尊です。

中村不動尊参道前の馬鳴菩薩文字塔

中村不動尊は、明治20年開山ということですが、風土記にも記載されているので、少なくとも江戸期には存在していたということになります。

木曽の覚圓坊の末ということですから、覚圓坊は1351年に園城寺から移転してきてますから、最大ここまで遡れることになりますね。

本山修験なので、明治の廃仏毀釈で一旦無となったはずですが、明治20年に村民により再開されたということですから、明治20年というと廃仏毀釈直後と言ってもよく、余程の信仰があったのでしょうと想像します。

馬鳴菩薩は、貧民の衆生に衣服を与える菩薩として、仏教の伝来と共に日本に伝えられました。

衣服を与えるということから、養蚕信仰に繋がっています。

先に進みます。建久年間(1190~1199)創建の上矢部総鎮守御嶽神社の境内社、蚕影神社です。

向かって左が蚕影神社

一気に行きましょう、先に進みます。持法院常盤不動尊です。

左が日枝神社、右が常盤不動尊

良いですね。

天台宗系の本山修験である常盤不動尊と天台宗の守護神日枝神社が並んでます。

その間に、蚕影神社があります。

蚕影神社

先に進みます。箭幹八幡宮です。

箭幹八幡宮

町田市史によれば、推古24年(616), 勅令によって勧請されたと、八幡宮記(この神社の記)にある古社です。康平5年(1062)には源八幡太郎義家が先勝を祈願したとの伝承もあります。

現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造ということで、養蚕の時代に入るずっと前から地域の崇拝を集めていたのだと思います。

ここに、御子守神社があります。

御子守神社

子 = 蚕で、蚕を守る神社に、御が付いて御子守神社ですね。

まだ続きます。先を行きましょう。ヤマトタケル伝承がある古社、皇武神社です。

皇武神社境内社の蚕影神社

ここにはオキヌサマの伝承があります。

昔、淵野辺の蚕を飼っている農家で、その一番忙しい時に、働き手の嫁さんが急に熱を出して寝込んでしまいました。

困った農家のおじいさんは、近くの皇武神社の神主さんの所に頼みに行きました。

神主さんは、

『お宅の嫁さんが一日も早くよくなるよう、特別にご利益のあるお札をあげよう。』

と言って帰しました。

次の朝、不思議なことに、神主さんの娘が手伝いに来てくれたのです。

娘はよく働き、家中がぱっと明るくなりました。

間もなく嫁さんの病気も治り、蚕の繭の出来も上々でした。

農家のおじいさんは娘を連れてお礼にきました。

神社の前に来ると、娘は急にひとりで拝殿の方に入っていきました。

変だと思って見ていると、娘は白蛇に姿を変え、中に消えてしまいました。

驚いておじいさんは、一部始終を神主さんに話しました。

『それは神様が私の娘に姿を変え、手伝いに行ったのだ。日頃よく信心するおかげだ。』

と、神主さんは言いました。

それからこのことが評判になり、皇武神社のお札は、"オキヌサマ" と言う人形と一緒に、もらいに来る参拝の人で賑わったそうです。

このオキヌサマ信仰は、秩父にもあるそうです。子ノ聖信仰がこの地に流れてきたことと相通ずるところがありますね。

◆□◇■

に、しても、濃いですね、養蚕痕跡濃度が。

GoogleMapsを見ても、赤 / 青ポイントの密度が最も高いエリアです。

八王子から南に下るルートは、本道の鑓水峠、杉山峠、七国峠、恋路坂(椚田〜大戸)ですが、それらが八王子街道(町田街道)に出合うのがこのエリア、だからでしょうか。

また、子ノ聖信仰とオキヌサマ信仰が生糸と共に秩父・飯能とこの地を結んでいるという点も非常に興味深いことでした。

長くなりましたのでこの辺で

次回はこの続きで八王子街道(町田街道)を横浜方面に進みます。

2021年4月25日日曜日

日本のシルクロード、本道、打越弁財天〜鑓水集落

今まで何度も行ってるんですが、それは道としての絹の道であって、養蚕の痕跡をexploreする為ではありませんでした。

だから、横浜までは行ってなかったし、色々調べてみると幾つかルートもあるようですね。

下記、地図をご確認ください。
  1. 八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 八王子街道 → 横浜港、(黒線)
  2. 八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 神奈川往還 → 横浜港、(黒線→茶色線)
    ※神奈川往還は、更に、北、南の2ルート有り
  3. 八王子 → 杉山峠(御殿峠) → 厚木 → 厚木街道 → 横浜港、(赤線)
    ※厚木街道は、更に、北、南の2ルート有り
  4. 八王子 → 七国峠 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港、(紫線→黒線)
  5. 椚田 → 大戸 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港、(青線→黒線)
  6. 八王子 → 長沼峠(甲山峠[野猿峠]) → 小野路 → 日野往還 → 神奈川往還 → 横浜港、(オレンジ線→茶色線)
    ※1~5は一般に言われているルートで、6は私が迅速測図からこれもそうだろうと思っているルートです。



と、言うことで、暫く楽しめそうです。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

迅速測図(明治13~19年、1880~1886)で、絹の道周辺の桑畑を調べ、現代地図に緑ポイントを打ってみました。

下記迅速測図を例にご説明しますと、下記は町田市小山町、相模原市小山の辺り(今は町田市と相模原市、これは武蔵国と相模国でもあるんですが、に、分かれてしまってますが、嘗ては1つの地域だったことが、"小山" という地名で分かりますね。その辺りのことは過去書いてます。)ですが、緑ポイントを見ていただくと、"桑", "畑及桑", "桑及畑" というように書いてありますね。

単に文字だけが書いてある所と、一帯を薄緑で塗りたくっている所があり、恐らく塗りたくっている所はその通り一面桑畑なんだと思いますが、そうやって迅速測図で桑を確認できた所を現代地図に緑ポイントと緑のポリゴンを打ってみたのです。

小山付近の迅速測図

改めて現代地図をご覧いただくと、絹の道沿いに、明治13~19年当時、桑畑が営まれていたことが分かります。

特に盛んだったのは、相模原市田名、上溝、下溝、上依知、大和市、町田市原町田、鶴間だということが分かります。

逆に、八王子から橋本・町田にかけて、長津田・鶴間・三ツ境から横浜にかけて、それから座間の辺りは全く桑畑がありませんね。

これはやはり迅速測図を見ると分かるんですが、山や河岸段丘の崖なんですね、桑畑が無い所は。また、川沿いは田圃となっていて、山ではなく、且つ、川周りでもない所が畑になっていて、その一部が桑畑になっていることが分かります。

(迅速測図は歴史的農業環境閲覧システムからKMLを頂いていますが、正に当時の農業環境が手に取るように分かります。こういう使い方をするのが正解なんですね。)

・・・と、思っていたんですが、今昔マップで1894年(明治18年)~1909年(明治42年)の状況を見てみたら、そんな甘いもんじゃなかったことが分かりました。

同じエリアの今昔マップ

アルファベットの大文字の、"Y" と、"L" を組み合わせたような地図記号が桑畑です。

一目瞭然、境川と相模川の間は一面、一面一面、いやぁもう本当に一面桑畑です。

是非、今昔マップに直接アクセスして頂き全貌を見ていただければと思いますが、迅速測図の1886年から、今昔マップの1894までのたった8年の間に、これ程までに桑畑が広がったのだなと感心させられますし、つまりはこの8年の間にシルクの海外輸出が本当に盛んになったんだなということが分かります。

いやぁ、スゴイです。

ベアトの、"横浜の近代遺産" から、"横浜周辺外国人遊歩区域図" です。左上に八王子、その南に橋本、黄色の道を辿ると原町田を通り横浜に行っています。これは私の地図でいう黒線ルートですね。その南に東西の黄色に塗られた道がありますがこちらは厚木街道でしょう。これら黄色い道の周囲に、"Mulberry District"と書かれていますがこれが桑畑です。因みに当時横浜の居留区に住む外国人はこの地図に示すエリアで乗馬ツーリングを楽しんでいたようです。どこに行っても自国の文化をやり通すアングロサクソンですね。

最初に開港となった横浜で外国人に生糸を販売したのは1859年だそうです。

以降、約80年間、生糸は日本の輸出トップを占め、更にそれは、全世界の生糸市場の8割を占めていて、その殆どが横浜から出荷されたということですから、本当にスゴかったんだと思います。

と、言うことで、桑が当時のこの辺りの人達にとってどれほど重要なものだったか分かりましたので、それを頭に入れながら、exploreしたいと思います。実走です。

今回は本道とも言える黒線を行きましょう!

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

まずは打越弁財天を目指します。

打越弁財天、天正年間ですから1573~1591年に創建されました。

弁才天は仏教の守護神たる天部の内の一つで、ヒンズー教の女神であるサラスヴァティが、仏教に取り込まれる過程で弁才天となりました。

ヒンズー教時代のサラスヴァティは川の名前でもあり、仏教に取り込まれ弁才天となった後も、経典に、『川辺に住む。』とあることから、水神と習合していったと思われます。

蛇行して流れる川は龍や蛇と例えられ、水害は龍や蛇が暴れていると解釈されて、水神は、龍や蛇と習合していきます。

ですから、神社でも祀られていますし、お寺でもそうです。

この打越弁財天は、梅洞寺の塔中だった輝西軒内に建てられた弁才天でしたから、お寺系ですね。

だから鳥居はありません。

鼠は繭を食べます。蛇はその鼠を食べてくれるので、弁才天は養蚕農家から信仰されていました。

特にこの打越弁財天は篤く信仰され、巳年の秘仏弁才天御開帳の際は、数千人の参拝者で賑わったと言います。

打越弁財天の絵馬、白蛇ですね。

あの桑畑の広がり方からすれば頷けますね。

奥の院の弁天様、迅速測図から、元はここが、この祠が打越弁財天そのものだったと思われます。

写真中央に池、その左の山頂に鳥居マーク、ここが上記写真の祠です。

さて、石橋入緑地を経由して大塚山に登ります。

大塚山全景

道了堂跡、1873年に、鑓水商人達の手によって永泉寺の別院として開山

今も残る当時のままの絹の道、広さ、石が敷き詰められている点、これらのことから、この道が当時如何に重要だったのかが分かります。

下界に下りたら絹の道資料館です。ここは鑓水商人八木下要右衛門の住宅跡地に建っています。この石垣は当時のもの。

我がグラベルクロスと石垣と絹の道

そのまま絹の道を進むと大栗川を渡りますがそこには御殿橋道標が。

北面に、"此方八王子道", 西は、"此方はし本津久井大山", 東は、"此方はら町田神奈川ふじさわ" と、彫られている。横浜へは原町田を経由するのでここは東へ。あるいは津久井も相当な生産量を誇ったから津久井に寄るなら西へ、ということでしょう。

元は橋を渡った向こうにありました。

更に進み、次の尾根越えの手前に小泉家屋敷です。屋根を見てください。屋根の上にもう1つ屋根があるのは通気口の為で、屋根裏にお蚕様の部屋があった証拠です。典型的な多摩の養蚕農家屋敷ですね。

小泉家屋敷

御殿橋を渡らずに東へ。永泉寺です。1573年開山、本堂は、鑓水商人八木下要右衛門の屋敷だったものを移築しています。

永泉寺

続きます。少し戻り子ノ神谷戸に入り、諏訪神社を訪れます。

この神社は諏訪神社なんですが、元々は子ノ権現で、この子ノ権現が鑓水の総鎮守でした。

子の権現の旧本殿

明治9年(1876)に、大芦谷戸と日影谷戸の鎮守だった諏訪神社、厳耕寺谷戸の鎮守だった八幡神社を合祀、この時、迎え入れる子ノ権現に棟札が無く、諏訪神社には棟札があった関係で、諏訪神社の名前で登記したとのことです。

この鑓水村総鎮守、子ノ権現の創建年は詳らかならずですが、新本殿(上記写真は旧本殿)が1792年の建立とのことですから、その前の創建ということになります。

一説には北条氏家臣大堂小太郎が1504年創建という話もあるようです。

この大堂小太郎という人物はネットで探し切れなかったんですが、1504年となると初代北条早雲ということになりますね。

早雲が小田原城を奪取したのが1495年ですから、時代的にも合います。

子ノ権現・子ノ神は、主に関東と伊豆に分布していて、これが北条氏の勢力圏と一致することや、初代北条早雲の生まれが子年であることから、子ノ神は北条氏が進出の度にその地に持ち込んだという説もあるそうです。

さて、ここは子ノ神ではなく子ノ権現なんですね。

子ノ神は、そもそもどういう神かは分かりませんが、結果的に大国主大神と習合しているケースが多いです。神話で鼠は大国主大神を救いますね。そこから大国主大神の眷属というように捉えられています。

一方、子ノ権現は、天長9年(832)ですから子の年の、子の月、子の日、子の刻に生まれた子ノ聖という天台宗の僧のことを指します。後に崇め祀られ、飯能の天龍寺が総本山的な位置付けとなっております。

子ノ権現旧本殿を見ると、金属製の草鞋が奉納されています。

画面左上と右下に。右下は一足です。

ここ鑓水の諏訪神社は、子ノ神ではなく子ノ権現であることと、草鞋とを掛け合わせると、天龍寺との関係が深いのではないかと推測します。

地理的に近くはないですが遠くもなく、北に山を幾つか越え多摩川を遡れば青梅に至り、青梅と飯能は一山越えますが交流があったようですし、この鑓水の諏訪神社から南に一尾根越えた町田にも実は子ノ神社があり、そこは子ノ聖、つまり、子ノ権現を祀っています。

八王子には関東近県の生糸が集積しました。天龍寺がある飯能もそうです。なので、天龍寺の勢力は、この絹の道を通ってこの辺りにも進出していたのかもしれません。

と、いうことで、ここ鑓水の子ノ権現は、北条氏、あるいは天龍寺の関係で、まずは子ノ権現として創建されたのではないでしょうか。

その後、由木の民俗には、

"神社の隅には石の色が変わるという蚕種石もあった。"

と、紹介されています。

また、境内の石灯籠を見ると、先程も出てきた鑓水商人の大塚徳左衛門、八木下要右衛門からの奉納が確認できます。

台座を見て下さい。こちらは大塚徳左衛門。

こちらは八木下要右衛門

更に、境内社には蚕影神社もありました。

境内社の覆殿があり、その中の1つが蚕影神社

と、いうことで、養蚕関係者から信仰される神社となっていったんだと思います。

が、何故、子ノ神、あるいは子ノ権現が養蚕関係者から信仰される存在となったのか?

子は鼠ですね。

打越弁財天は鼠を食べる蛇を信仰してましたが???

解釈するに、子ノ聖 → 子ノ神 → 鼠となり、鼠に対して、"どうか繭を食べないで下さい。", という方向性の信仰なのではないか。

あるいは、子ノ聖 → 子ノ神 → 大国主命 = 蛇ということでしょうか?!

いやぁ、拘ると色々と出てきて長くなってしまいます。

先を行きましょう。

町田街道に出るにはもう一山、峠を越えなければなりません。

その地は嘗て、"浜見場" と、呼ばれました。

小山田入り公園の浜見場があった山

この高台からその名の通り横浜が見えたと言うことなんですが、さぁ行くぞと言う意味だけではなく、ここで横浜と通信していたようなんですね。

生糸の価格はその時その時によって大幅に変わります。高い時に持って行けば高く売れる。だから、それが今なのか、そういったことを狼煙を使ってやり取りしていたのではないか、と、言われているそうです。

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如何でしたでしょうか。

生糸のおかげで日清・日露戦争に勝ち、列強の仲間入りしたとさえ言われていますが、その痕跡が、チャリで行ける範囲に、ここまで色濃く残っているとは。

皆様も是非、訪れてみて下さい。(何ならご案内します。)

ではまた