2016年9月10日土曜日

橘樹郡衙~武蔵国衙間官道

江戸時代の古道を見つける方法は、迅速地図を使ってそのものズバリを探せば良い。迅速地図は明治13~14年に作図されているが、自動車社会になる前なので、江戸時代とさほど変わらないからだ。

鎌倉~室町時代になると、軍事戦略上、尾根道を好んで使っていたので、川沿いの低地に走る道と尾根道が平行してある場合、尾根道を選択すれば良い。徒歩道(一本点線)や軽車道(一本実線)で結構残っている。

しかし、古代官道はというとそうはいかない。流石に1,000年経っているので、迅速地図にも殆ど残っていないからだ(逆に、残っているものは残っていて、それは現代地図でも確認できる場合が多い。)。

私の場合、古代官道は以下の手順で探し当てる(「当ってる」かどうかは別にして・・・)。

  1. GoogleMapsでスタートとゴール間を直線で結んだ地図を作図
  2. KMLに落とし、予め迅速地図を仕込んであるGoogleEarthの迅速地図上で表示
  3. 直線になるべく近い道を繋いでいく。この時、中世古道探しのように尾根とかは気にしない。直線優先である。しかし、国衙間、つまり東海道等は直線大優先だが、国衙~郡衙間はさほどでもないだろうという感じで繋いで行っている。

そのようにして、今回の橘樹郡衙~武蔵国衙間官道も探してみたんだが、最初は神奈川県道14号を推定していた。多摩丘陵と多摩川デルタの境の低地側を行く道だが、だから走ってもつまらなそうだったので、ずっと行かないでいた。

先日、暇に任せて迅速地図を見ていたところ、この神奈川県道14号説は、北東向きに膨らんでいる感じがどうも気になるようになって、もう一度見直してみたのであった。すると、より直線に近く、きれいに尾根を行く道があるではないか。実は最初に作図した時も、この道の存在には気付いていた。気付いてはいたんだが、R246を過ぎた辺りから怪しくなったので途中で検討を止めてしまっていたのであった。今回、改めて検討したところ、むしろ、こっちの方がシックリくる。

赤が尾根ルート、青が低地ルート。とりあえず、大山街道まで。

道が決まったら次は道中の立ち寄りスポットの検討だ。

  • 橘樹神社
  • 富士見台古墳
  • たちばな古代の丘緑地(橘樹郡衙跡)
  • 影向寺

は、当然押さえるとして、迅速地図を見ていると、影向時周辺、今回の推定官道尾根ルート、推定官道低地ルート(こっちも捨ててはいない。)とR246に囲まれたエリアに、

  • やたらと神明神社が多い。
  • 天台寺院が多い。しかも全部深大寺末。
  • 古道も残っている。

ことに気付いた。特に、影向寺周辺に集中している。って言うか、天台寺院は第三京浜の向こうにも4つ程あるが、みな開山が室町で、なんかやっぱり様子が違う感じ。一方、影向寺周辺の天台寺院、西蔵時、能満時は、影向寺の塔頭で開山時期も同じらしい。

下記地図参照してください。お手数ですが、ズームアップして頂いて、橘樹郡衙付近を大きく表示して確認いただきたい。神明神社は太陽マーク、天台寺院は山マーク、古道は黒実線で表示してあります。

集中してますよね!



神明神社が多いのは、この辺りが稲毛庄だった時、稲毛三郎重成が、伊勢神宮に寄進したからではないか。江戸川区に住んでた時もそうだった。あそこも、葛西三郎清重が伊勢神宮に寄進したので天祖神社がものすごく多い。

天台寺院が多いのは、恐らく以下の理由だろう。

  1. 影向寺の草創、7世紀末。この時、法相宗。
  2. 深大寺の開山、733年。同じく法相宗。
  3. 影向寺、聖武天皇の勅願により行基が橘樹郡寺として改めて開山。740年。
  4. 858年、慈覚大師円仁が、影向寺に薬師如来造立。この時、影向寺が天台宗に改宗。
  5. 859年、深大寺も天台宗に改宗
  6. 深大寺、隆盛となり、逆に、影向寺は衰退し、影向寺が深大寺末に
  7. 影向寺の影響下にある能満寺など周辺の寺院も改宗、あるいは深大寺末に
  8. これ以降に開山の寺院については、むしろ、天台寺院がここに集まった。

ということで今回は、定番の4つに加え、能満寺など天台寺院と、もう残っていないかもしれないが神明社の幾つか、官道以外の古道を立ち寄りスポットに、Explorerしてみたいと思う。

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まずは、みなさんご存知、橘樹神社。お馴染みの伝説がある神社です。詳しい説明は避けましょう、ネット上にたくさんあるから。

橘樹神社

その、弟橘姫の御櫛を治めた伝説がある、富士見台古墳。

富士見台古墳、残念ながら墳頂のみ残存

迅速地図見て頂きたいんですけどね、キレーイな半島なんですよ。さぞね、眺めが良かったんじゃないかと。

橘樹神社は黄色ピン。この東は多摩川デルタ。平安鎌倉の時代は海進で海だったろう。さぞ、眺めが良かったに違いない。

で、今はというと、南東の眺望はこんな感じ。雰囲気はある、、、か。。。

富士見台古墳、墳頂から南東の眺望

この橘樹神社、名前が、橘→立花→橘樹と変わったそう。橘→立花は、713年の諸国郡郷名著好字令によるのだろう。と、なると、この神社は713年より前からあったということになる。

じゃあ、いつか。

可能性は2つ。1つは、伝説の通り、ヤマトタケルノミコト東征の時、西暦にして100年前後。2つ目は、ヤマトタケルノミコト東征の記載がある記紀発行の720年頃。720年だと諸国郡郷名著好字令と前後しちゃうけど、都から遠く離れた東国だから、少し遅くなったと考えれば良い。

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さて、橘樹神社と富士見台古墳のエリアから離れ、中原街道を超え、影向寺エリアに入って行く。以下、天平の天台三山。

能満寺。観音像は、衣は大ぶりに足までかかり、膝から下にはU字状の衣文が見られるなど平安時代の貞観彫刻(784-894)の特徴が認められる。慈覚大師が影向時に薬師如来を作ったのが858年だからこの観音様も慈覚大師作か?!

本命、大御所、影向寺

西蔵寺。本尊聖観世音菩薩像は慈覚大師の御作と伝えられ、影向寺の薬師如来を掘った余り木で作られた。

そしてここが橘樹郡衙跡地。

橘樹郡衙跡地、今のところただの空き地

さて神明だが、迅速地図だとこういう配置だ。

天台三山エリアの神明神社4社の配置

粘って探したんだけど、現存するのは野川神明社のみだった。

唯一現存する野川神明社

この野川神明社、祭神はというと、

  • 天照大神
  • 伊弉諾尊
  • 伊弉冉尊
  • 素戔嗚尊
  • 大己貴命
  • 韋駄天尊神
ん?! イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオナムチ???

実は、神明の多さも気なってたんだけど、少しエリアは外れますが八坂と杉山も多いなと思ってたんですよね。この野川神明社のスサノオは八坂合祀によるもの。このエリアにも八坂があったんですね。オオナムチは第六天合祀でしょ。イザナギ、イザナミは??? なんだけど、近所の馬絹神社も女体 = イザナミでしたね。杉山はイソタケル = スサノオの弟で、ここは、出雲の香りもプンプンしますな!!!

(でもやっぱり神明は伊勢神宮の御厨かな。出雲とアマテラスは並立しないもんね。まず出雲がこの地に来て、その後、伊勢神宮御厨となって神明が出来たんでしょう。)

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あんまりウロウロばかりしてないで、さてでは官道を走りましょう。この尾根ルートは非常に気持ちの良い尾根道です。

馬頭観音と如意輪観音が並ぶ

尾根道の証拠たる写真、大山が見える。

周辺の古道も良い感じ。っていうか、すごく良かった。

風情のある坂や

丘の上のハイランド古道

このエリアには末長杉山神社

末長杉山神社、出雲の神、イソタケルを祭る。

梶ケ谷からはあまり面白くない道筋となり、長尾の山越え後、府中街道に合流し是政から府中に至る。だから写真は無い。

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梶ケ谷から先はつまんなかったけど、梶ケ谷までは期待以上に面白かったです。ここは歴史深いですね。ぜひ、訪れてください。

以上です。

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