2017年12月1日金曜日

上海の歴史、松江

今ちょうど大河で直虎を放送してますが、その中で、井伊谷の新たな産業として綿花を栽培するというシーンがありました。

日本における綿花栽培はあの頃から本格化したと言われていますが、その前は輸入に頼っていました。

どこから輸入していたか?

主に明と朝鮮でした。ナント!!! 明の時代(1368~1644)、松江の総生産量の90%は日本に輸出されていたそうです。

私は仕事で上海に一年の半分、滞在しています。今や日本経済は中国無しでは考えられませんが、明の時代から、日本と中国は密接な結び付きがあったんですね。

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今の松江は上海市松江区で、その中心地は地下鉄9号線と松江中山中路が交差する辺りでしょうか。車は常に渋滞し、道行く人も多く、非常に賑わっています。

”松江”という地名が登場するのは元の時代(1271~1368)の”松江府”ですが、唐の時代(618~907)から、この辺りは華亭県と呼ばれていて、華亭県には華亭県城があり、県衙は松江中山中路付近と言われていますから、唐の時代から変わらず中心地だったということになります。

雲間第一楼、嘗ての松江府城中心部に再建された。下に、清代の松江府城地図を載せたが、ほぼ中央に、”松江府”と記載があるのがこれだ。

華亭県城はそのまま松江府城となりましたが、地図を見るとその痕跡が見事に残っています。



薄紫のポリゴンが堀と城壁に囲まれた松江府城のエリア。南と、南から東門へ至る堀は残っています。又、東門には東門村という地名が、北門にも北門街という地名が、南門にも南門村という地名が残っています。東西を貫く松江中山中路は、嘗ての東西のメイン水路でした。

清代の松江府城

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"痕跡"こそ残れど、嘗ての松江府城内はすっかり現代の町並みと化し、フォトジェニックさは見られませんが、松江中山中路を西進し、西門を過ぎ、沈泾塘を秀野橋で渡ると、明清時代の建造物が今も未だ残る松江老街に至ります。

清代の建築

しかし何と言ってもハイライトは大倉橋でしょう。

大倉橋、明代の建築
大倉橋前の石畳
橋上から東を望む
川沿いを行く

川沿いに数百メートルしかない老街ですが、逆に、全く観光地化されておらず、地元の人達の生活が垣間見れます。

今回は遠慮して生活の様子を撮れませんでしたが、再訪し、チャレンジしてみたいと思いました。

以上

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